門 夏目漱石

ついに夏目漱石の前期3部作の3部目、「門」を読みました。

前作の「それから」では “略奪愛” がテーマになっていて、今回の「門」は「それから」の ” それから” がテーマ。

登場人物や状況は少し変わって、宗助と御米(およね)が主人公として話が進んでいく。

ただ今回は、登場人物がすごく少ない。

それもそのはず、この2人は東京の都会で人目を憚るようにして、日々慎ましやかに生きている。

物語の前半では、なぜこのように暮らしているのかはっきりとせず、ただ静かな暮らしの中に時たま暗い影が落ちる。

この徐々に2人の過去が明らかになっていくのが、読んでいてすごくもどかしい。漱石の小説は明治時代当時、新聞に掲載されていたから、読者は相当もどかしかったんじゃないかなと思う。

でもその決定的瞬間というのは、はっきりと表現されない。…ニクいぜ漱石。

はっきりとは表現されないものの、御米の当時の彼(旦那かな)と宗助はもともと大学時代の友達同士。でもある時、友人を裏切って宗助と御米は一緒になる。大風が突然不用意の二人を吹き倒すほどの勢いで。

そんな罪の意識を抱えたまま、二人は二人だけで生きていく。実際には、下女の清もいるし、年の離れた弟・小六(ころく)や、裏の家には大家さんの坂井がいるけども、極力人を自分たちのテリトリーに心理的に入れない、そんな感じ。

当時の生活がいまいち分かっていないけど、宗助の家はお金がカツカツなのに、下女もいるし弟の面倒もみることになって後に同居している。でもカツカツなことに違いはなくて、靴を買うのにも臨時収入を待たなくてはいけなかったりする。

この「門」はよく、結局は信用しきれない男女の話(大事な話を打ち明けて共有しないから)、不倫の末の暗く寂しい夫婦の話、として語られることが多いように思うが、私はそうは思わなかった。

確かに宗助は、安井が裏の家の坂井と繋がっていて、今度安井が坂井家に招かれている予定だということを聞いた後も、御米には打ち明けず一人悶々と悩み、ついには禅寺へ行く。(悩んだ時に禅寺で座禅を組むのがいっとき漱石の友人間で流行った時があった)

でもこれ、たまたま弟の話が出た流れで安井の話になったけど、これ聞いてなくて当日宗助と鉢合わせてたかと思うと恐怖…!二人はどんな感じで再会するのかな、、意外とそこで本音をお互いぶつけてはっきりさせた方がこれからの人生、明るいものになるんじゃ無いかなーとも思う。

ちょっと話が逸れちゃったけども。

悩んだ末に仏?ってのは宗助に対してちょっと疑問だ(まぁそれだけ追い詰められてたんやろう)けど、言わなかったではなくて、言えなかったに近いような気もする。そうでなくても小六と一緒に暮らすようになって体調を崩したりする御米だから、精神衛生上良くないと思ったんじゃないかな。

全部全部打ち明けて共有する優しさ。無駄な心配させたくないと言わない優しさ。

これは一体どっちが優しいんやろう。

でも間違いないのは、宗助も御米をお互いとても大事に想っているということ。激しく目に見える分かりやすい愛情ではないし、決して幸せと言える(口にできる)立場ではないんだろうけど、私の目に映る二人は幸せに見えた。こんな静かな小さい幸せっていいな、ってなんか思った。

安井の話を聞いた宗助は、その後の行動は明らかにおかしかったし、御米は絶対に何かしら感じてたはず。絶対。『どうした?』と何回か尋ねるけど、何にも言わない宗助に対して別に責める気持ちもなかっただろうし、とりあえず見守ることにしたんじゃないかなー

御米はそれくらいデキる女な印象を受けた。この人は強い。そして静かで柔らかい。3度流産をして、占い師に『あなたは人に対して済まない事をした覚がある。その罪が祟っているから、子供は決して育たない』と、言い切られてしまう。だから私はもう子供が産めないのよ、ごめんなさい。ずっと言いにくくて、隠しててごめんなさい。と泣いて謝る御米がすごく健気に見えた。

それに対して宗助は、もうそんなとこ行かなくていいよ。馬鹿げている。と一応気遣って大したこと無い風に言って、そのまま寝てしまう。(これは夜布団に入ってから寝るまでに始まったやりとり)

ちょ!ちゃうねん、そんなん聞きたいんちゃうねん。

と私は思わずツッコみました。えぇ。

そもそもこの話になったのは、その日の日中に宗助が子供がいないと寂しい(正確には ”子供がいたら貧乏な家でも陽気になる” )と言ったことが発端。

この時の状況は、子沢山の大家さん・坂井の家に宗助が行った時に、そこに山梨から反物を売りにきている男がいて、御米に一反買って帰った。そして、坂井の家での出来事を話している中で先程のセリフが出てきた。

その言葉に反応した御米にも気付かず、御米の嗜好にあったものを持って帰って来て、細君を喜ばせることできた!と浮かれてる宗助。

宗助…。でも男はだいたいそんなもんなのかもしれない。基本的に物事のアウトラインしか理解しようとしない気がする。(偏見w)

その御米の反応に気付かず、”わしいいことしたやろドヤァ” にもちょっとイラッとして、やっとの思いで打ち明けた御米に対して掛ける言葉はそれじゃなくない?!と思ってしまった。

きっともうこの先この夫婦が子供の話をする機会はよっぽどなことがない限り無い気がする。

それは御米がデキる女だから。一回のやりとりでもう分かったやろう。

でも私は往生際が悪い、そして白黒はっきりさせないと嫌なタチなので、きっと翌晩、宗助の気持ちを吐かせようと今度はちょっと強めに宗助を詰めることになるでしょう、、、

はい、少しは御米を見習おうと思います。

散々宗助をなじったけど、宗助も好き。ちゃんと御米への愛情を伝えてるから。言葉とかじゃなくても。こういう人、私は好きです。

ということで、暗い、陰気だ、と言われがちな「門」ですが、私は好きです。

不倫は嫌だけど、こんな慎ましい生活にちょっと憧れさえ抱く。きっと漱石は憧れを抱いて欲しかった訳じゃないやろうけどね。

最後に、この「門」というタイトルは漱石の弟子が付けたもので、漱石も”話が全然門っぽくならない”と言っていたという説もある。

ということで勝手にタイトルを考えてみました。

「四季」

なんてのはどうですか、漱石さん。

というのも、この「門」には、結構季節の移り変わりの描写が出てきます。

俳句や漢詩が好きだった漱石だからなのか、自然の捉え方がすごく美しい。ぜひ、ここにも注目して読んでもらいたいです。

そしてよく男女の対比で取り上げられる最後のシーン。

御米は障子しょうじ硝子ガラスに映るうららかな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしいまゆを張った。宗助は縁に出て長く延びた爪をりながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたままはさみを動かしていた。

ここで「門」は終わる。

ここにも”春”と”冬”が出てきます。

この、御米が春が来たと晴々しく顔を上げている様子に対して、宗助は下を向きながらまた冬が来るよと言っている対比。

確かに女の方が強いのかもしれない。でも罪の意識を背負っているとはいえ、いつまでも下を向いてウジウジするのもどうなんや。これは別に楽観的に考えてる訳では無いんじゃないの?

と、思う私はやはり”女” なのでしょう。

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