夏目漱石の前期三部作のひとつ、前回の三四郎に次ぐ作品。「それから」。
英語でいうところの「and then」。これは関係ない。
「それから」のタイトルについて、漱石はこのように予告していたという記述を発見したのでそのまま引用。以下です。
「それから」の予告で漱石は云っている。
色々な意味に於てそれからである。
「三四郎」には大学生の事を描たが、
此小説にはそれから先の事を書いたから・・・・それからである。
「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、
此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからである。
此主人公は最後に、妙な運命に陥る、それからさき何うなるかは書いてない。
此意味に於ても亦それからである。
漱石にしては珍しく色々なことに掛かっている「それから」。
「吾輩は猫である」は「猫伝」にしようかともしてたし、この後の前期三部作の最後の作品「門」は弟子たちに決めさせたし、娘の名前も結構安直やし。
そういう漱石のネーミングセンスを考えたら、「それから」になったのも、「三四郎」のそれからの話だからもう「それから」でいいか。みたいな流れから、この予告を描くときに、何なら色んなことの ”それから” でもあるやん!って気付いたのかもしれん。
と、勝手に色々妄想。
「それから」のあらすじはこんな感じ。
30歳になっても職につかず、実業家である親の仕送りで暮らしている代助。ある日、生活に困窮したかつての友人・平岡と、その妻・三千代に再会する。3年前、三千代を愛していながらも平岡に譲った代助。再び交流を重ねるうちに、しだいに三千代に恋心を募らせ、ついにはその愛を貫き通そうと決心するのだが……
社会の掟に背き、「自然」の情念たる愛を追求する人間の苦悩を描く。
と、あります。ちなみにこれは角川文庫さんのあらすじ。
そうです、これは略奪愛の話です。
みなさんは友人と同じ人を好きになったことはありますか?
その時あなたはどうしましたか?
私は残念ながらそんな甘酸っぱい経験はないんですが、この「それから」は相手が人妻っていうんだからタチが悪い。不倫はいけませんね。全然甘酸っぱくはない。もはや苦い。
でもこう言う話は今も昔も変わらずあるネタなんだなぁと思う。
これは人の性なのでしょうか、、
この「それから」の主人公・代助は、あらすじにもあるように、働かずに家のお金で好きなことをして暮らしています。
いわゆる『高等遊民』というやつで、帝国大を卒業しているのに経済的に不自由がない為働かない。
ちょっと、というかかなり羨ましい生活。w
友人・平岡に『何故働かない』と問われた時の代助の答えがコレ。
「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――」
長い!シンプルな質問に対しての答えが長すぎる!これは途中で流し見しちゃうやつだねぇ。。
そう、代助はそういうヤツです。(あくまで私見w)
とにかくいつもあーでもない、こーでもないと頭で考えている人です。
にしても、このセリフに関しては漱石も思ってたんじゃないかなー。
”日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。”
このセリフ。
「三四郎」でも、広田先生に ”日本は「亡びるね」” と言わした。
日露戦争に勝って、日本も列強国の仲間入りだと浮かれている時に言った台詞だ。
1908年(明治41年)に「三四郎」が朝日新聞で連載され、その後(間違えた!それから、)「それから」は翌年の1909年(明治42年)に連載されている。
この1年で日本はどれくらい変わったのだろうか。
維新後の激動の時代の日本をもっと知りたくなったので、その辺の記述のありそうな書籍を買い漁ってみました。そうした上でもう一回読んでみようかな。
今回の「それから」は、代助の言っていることは分かるような分からんようなで、要所要所飛ばし読みをしました。。
なので私には、この「それから」はまだ略奪愛の話でしかない。
ちなみにこの作品の恋愛模様については、好きだった女性(三千代)がいたのに、友人(平岡)にその彼女を紹介し結婚させた。これはその当時三千代も大変な時だったから、経済力があるであろう平岡(銀行勤め)に託したのかなー
でも再会して、2人は幸せそうにしてなくて、何なら平岡は借金があるのに女遊びをしている。(代助ももれなくしています。)何なんや、男たちは一体。
そうして代助と三千代は再会します。しかし、そんな状況で三千代のことがいよいよ可哀想になり、自分の元におきたいと思うようになる。
物語後半。代助の告白、父との対決、平岡との決別。この辺の物語の運びはさすが漱石だなぁ。このクライマックスにかけての展開がなかなかドキドキして面白かった。
これを新聞でちょっとずつ読んでいた明治の人たちは、続きが気になってしょうがなかったに違いない。
あと注目すべきは、花と色について。
ちょくちょくレビューでも見かけるけども、作中に「赤色」と「白色」の描写が出てくる。そしてそれらは花で表現されていることが多い。
枕元の椿、庭のアマランス、実家の庭の薔薇、、
鈴蘭、白百合、、、
白い花が出てくる時は三千代も出てくる。愛の象徴なのかな。
赤は最後の街の描写にも使われるけど、まさに危険、危機の状態。
最後、父にも勘当された代助は職を探しに街を飛び出した時も、世の中がぐるぐる赤く回転しだした。
それから二人はどうしてゆくでしょう。
社会や世間に盾突き、家も捨て、身一つで三千代と一緒になることを決めた代助。最初の頃の代助とは全くの別人だけど、こうなることが「自然」なら、こっちが本来の姿なのかな。
さて、一部の「三四郎」では上京してきたキラキラした大学生が描かれ、二部の「それから」では、人間や社会のドロドロした部分が出てきた。
さて、最後の三部「門」がどういう展開になっていくかは、読んでからのお楽しみ。
おしまい。
コメント