こんにちは。
わたしは散歩が好きなんですが、もう我が家の近辺の道に飽きておりまして、どこか知らない土地に行きたい今日この頃です。ジェリー藤尾さんの「遠くへ行きたい」が沁みます。
2年ほど前までは山の方に住んでおりまして、その頃は同じような道でも年中、飽きずに歩いていました。おそらく季節によって姿を変える自然が、私を飽きさせなかったのでしょう。
とか言っていたら、整いました。
「長く続く残暑」とかけて
「山の散歩」ととく。
その心は
「なかなか飽き(秋)がこない」でしょう。
秋が待ち遠しいですね。
さて、散歩といえば、たいていの人は路上を歩くのではないかと思います。路上といえば、梶井基次郎の『路上』ですよね、ということで今回はそのお話を。
非常に短いこの作品。私が初めて読んだのは1年ほど前。その時は、スッと読み終わり、だけど、なんかクセになる。地味な食材の素朴な料理なんだけど、なんでこんなに印象的な味を出せるのだろう,,,という感じだった。
その後は、たびたび読み返して味わっている。俗にいうスルメ感というのでしょうか。
ストーリーはというと、端的に言ってしまえば、雨上がりの学校からの帰り道、ぬかるんだ山道を、”自分”が転びながら滑りながら、下っていくという話だ。シンプルかつショート。KISSの原則に則っていて、非常に読みやすい。たったそれだけの行為と心情を、梶井流に作品に昇華している。
ぬかるんだ道を前にした”自分”には、後戻りという選択肢は無い。一歩踏み出し、ぬかるみに転ぶ。しかし、それでも進んでいく。そしてやっぱり、滑っていく。夢中でぬかるみに向かっていく様子、”自分”の行為への没入度を「本気」という言葉で端的に、かつ印象的に表現されている部分が、私は好きです。
君は本気か!!
そして下まで滑り切った後の、興奮冷めやらぬ中、我に返った時の静けさ。一瞬前までの自分の濃密な意識と、山から広がる静かな景色とのギャップから、さっきまでの自分が夢だったように感じ、いっそ嘲笑っていてもいいから誰かに見ていてほしかった、と”自分”は思う。
誰かのリアクションで、さっきまでの自分は現実だったのだと実感したい。そんな感覚でしょうか。でも、誰も見ていなかった。
その帰り、”自分”はこの事を書かないではいられない、自己を語らないではいられない、と思うのだった。ーーーー
最後に、書かないではいられない、と思うあたりが作家の性なのでしょうか。滑って転んだ経験を作品にできるなら、ほとんどの日常を作品にできるじゃありませんか!
私事ですが、昔友人とスーパー銭湯に行った際、湯船の縁で見事にすっ転んだことを今でも鮮明に覚えています。ひょろっとした体型の180cm近い野郎が、目の前で、一瞬で、裸で、なかなかの衝撃音とともに床にビターーン。リラックスしていた方々も驚いたことでしょう。
おじいさんに「大丈夫かい?」と心配された時は、恥ずかしさと恥ずかしさと恥ずかしさが入り混じった単純な気持ちでありました。素っ裸で転ぶ、というのは恥ずかしさも一入です。
梶井であれば、あの気持ちも『湯船の縁の上』とかいうタイトルの立派な作品に仕立て上げていたのでしょうか。もしくは、ただただ恥ずかしいだけの気持ちはさすがに小説にはしないのでしょうか。
いずれにせよ私は梶井ではありませんでしたので、あの気持ちは昇華されず、今でも記憶の片隅にあります。
ちなみに私の場合は大勢の人に目撃され、隣では友人が嘲笑ってくれていたので、梶井的に言うと救われたと言えるのでしょう。
ということで、作家ってこんな事でも作品にするのすごい!となった『路上』、ぜひ読んでみてください。
最近転んだよ!、もしくは、これから転ぶよ!って人に特におすすめです!(?)みなさまの安全と健康をお祈りしております!
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